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下田赤いかキャンペーン
五月の終わり、夫から一枚の画像が送られてきた。
下田で赤いかキャンペーンというのをやっているらしい。ここで言うところの赤いかとは、ケンサキイカのことである。確かにケンサキイカは夏のイカだけれども、下田が赤いかで有名だなんてまったく知らなかった。下田といえば金目鯛じゃないのか。
キャンペーン概要によると特に出し物があるわけではなく、赤いかを出す飲食店や宿をMAPにまとめたので各自楽しんでくださいという感じのようだ。検索してもあまり情報がない。なんとなくテンションの低さを感じるが、行ってみることにした。
曇天の下田
熱海で伊豆急下田腺へ乗り換える。実は伊東より先へ行ったことはなく、下田も初めてである。車内から海を見たいと思っていたが、梅雨らしい天気で海も空も灰色だ。
わざわざ海側の座席に座ったのに、早起きと日ごろの疲れで私も夫もほとんどの時間眠ってしまった。下田は終点なので寝過ごすこともないし安心だ。
終点独特の空気に起こされて電車を降りると、改札の方が騒がしい。駅員の方なのか、降りてくる乗客にチラシを配ってやさしく歓迎してくれている。そしてその中にイカの被り物をしている人が!
撮影をさせてもらいつつ、赤いかキャンペーンのために下田に来たんですよと前のめりで声をかけたが、なんとなく流された。駅はあじさい祭りののぼりでいっぱいである。やっぱり赤いかキャンペーンは盛り上がっていないのか。
じわじわと赤いかの気配
駅前の探検はそこそこにして、予約した料理店へ向かう。30分ほど歩いたが、赤いかキャンペーンののぼりもポスターも何もない。どこもかしこもあじさい祭り一色である。
昼食は夫がここぞ、という老舗磯料理店を選んでくれていた(この旅行は私の誕生日祝いを兼ねているので、全体的に飲食物が豪華)。
テーブルに着くなりウェルカム塩辛がサーブされ興奮したが、多分赤いかではない。塩辛はスルメイカのように肝が豊かなイカだから作れるのであって、赤いかの控えめな肝では難しい。色も、赤いかの肝はもっと黄みがかっている。しかし、肝だけはスルメイカで身はヤリイカやアオリイカを使うという珍しいパターンを以前食べたことがある。念のため聞いてみたが「真いか(スルメイカ)ですね」とのこと。やっぱりね。でもイカなら何でも嬉しい。
お祝いだからと奮発したコースは、竜宮城の乙姫様もびっくりのご馳走であった。
鬼殻焼き提供前には生け簀から上げたばかりの伊勢海老を見せてもらえるのだが、その後店員さんが厨房へ「海老確認済みで~す!」と元気よく伝えるのが面白かった。
昼間から酒を飲みすっかりいい気分であるが、ちょっとそわそわ。赤いかとの対面がまだである。コースに赤いかは含まれないことはわかっていたので、当日の黒板メニューに賭けていた。
そして……
賭けに勝った! 下田に着いて初めての赤いかである。やったー! 赤いかは火を通しても柔らかい。薄めの味付けで甘みが引き立って美味しい。
これでなんとか赤いかミッションクリアだと喜んでいたら、次に出てきたコースのもずく酢に赤いかが乗っていて力が抜けた。
下田海中水族館で赤いかを探す
満腹の腹をさすりながら海沿いを歩いていると、次の目的地が見えてきた。
入場するなり、カメラを持った職員さんが問答無用で記念写真を撮ってくれた。帰りに出口で現像したものを確認して、気に入れば購入できるというアレだ。絶滅危惧サービスを久しぶりに味わって懐かしい気持ちになった。
まったく期待はしていなかったが、やはり赤いか(ケンサキイカ)はおらず。ケンサキイカの飼育は難しいと聞く。もし飼育展示をしていたらイカ界隈でちょっとしたニュースになっているはずだ。
イカはいなくても展示は充実。アシカとイルカのショーをたっぷり楽しんで後にした。結局入り口で撮ってもらった写真は買わなかった。ごめんね。
あじさい祭り
あじさい祭りをやっている下田公園がすぐそこだったので、覗いてみることにした。
たまたまだが、進めば進むほどあじさい密度が濃くなるルートを進んだので、後半にかけてうまいこと気分も盛り上がり、しばらく赤いかのことを忘れていたほどだ。
あじさいで十分に目を潤したあとはペリーロードをぶらつき、夜の予定に備えた。
宝石のような夜
旅の夜の楽しみと言えば、季節の地物を出してくれる居酒屋である。以前に居酒屋を紹介する番組で見かけて気になっていたところを予約しておいたのだが、これがなんとも不思議な出会いだった。
店は宿のある街の中心から離れた住宅街にある。強面な感じのご主人と、割烹着の女将さんがカウンターの中から出迎えてくれた。
瓶ビールとお通しをつまみながら東京から赤いかを食べに来たことを伝えると、「ちょうどお客さんからおすそ分けがあったから」と赤いかの船上干しを出してくれた。
お客さんが島(多分伊豆諸島)まで行って釣って干したものだという。赤いかの船上干しなんて初めて見ましたというと、ちょうどよかったとご主人も笑顔を見せてくれた。あとから気付いたが、島から来た赤いかだから、あしらいが明日葉だったのか。
品書きにあった「じんた鯵の南蛮漬け」を頼もうとしたら、残念ながら今日はないという。そもそも「じんた鯵」ってなんだろうと首をかしげていると同じカウンターで飲んでいた3人組のお客さんが教えてくれた。豆鯵のことらしい。「小さいから面倒だけど、一つずつ指で開いて揚げると美味しいの。昔はこの辺でいくらでも釣れたのにね。全然いなくなっちゃった」と寂しい話を聞いた。
代わりに頼んだ鯵のなめろうと本命の赤いか刺しを待つ間、自然と会話が続く。3人は両親と娘さんで、この店で3人揃うのはなんと10年ぶりだとか。めでたい時に居合わせた。そして話し込むうちに、もっと不思議な縁が明らかになっていったのである。
なんと娘さんは、我々の住まいのすぐ近くに住んでいるという。この日はたまたま実家の下田に帰ってきたところだそうだ。あまりメジャーとは言えない駅なのでびっくりである。お酒が大好きな彼女はよくその沿線を飲み歩いており、ここがお勧めなんです、と教えてくれたのは正に我々の行きつけの店で笑ってしまった。
それから近隣の飲み屋の話で散々盛り上がり、不思議なご縁だね―などと言っていたのだが、更に不思議は続く。娘さんの友人が、我々の飲み友達が店長をしているラーメン屋の常連だという。ちなみに住まいとはまた全然違う場所である。
更に同じ静岡県出身である夫の出身高校とはよく剣道で戦っていたらしく、家族揃って何度も近所へ来ていたそうだ。同じ静岡でも夫は山の方で下田は海の方なのでなかなか珍しい縁である。偶然ってあるんだなぁ。
そうこうしているうちに本命の赤いか刺しが来た。
すべてが輝いて見える。身がねっとりして非常に甘い。サッと湯通しされたゲソと軟骨もちょうどいい塩梅。ワサビでなく生姜を合わせるのも私の好みだ。うっとりしていると、娘さんのお父さんが言う。「ここのご主人は魚を宝石のように扱うからね」
カウンターなのでずっとご主人の手元が見えているのだが、本当に丁寧に丁寧に食材を扱っているのがよく分かった。
そろそろ飲みも終盤、明日の予定がふんわりしていることを伝えると、怒涛の勢いでおすすめのお店を教えてくれた。
お母さんが言うには鰹節なら山田鰹節店、花むすびは天むすが美味しい。平井製菓の牛乳あんパンは外せないし、ロロ黒船の水まんじゅう、さいかや菓子店のサブレも是非と娘さん。お父さんはなぜか自分で行ったことのない中華料理屋を勧めてくる。他にも行ききれないほどのお店をメモするので精一杯だった。
「今日はお客さんに接客してもらっちゃった」とご主人は優しく笑っていた。
山田鰹節店
二日目は昨晩の伏線回収である。