イカを想う

今年の夏は異様に暑かったが、私がイカと出会ったのも、観測史上最も暑いと言われた2010年の夏であった。

当時はメーカーでコンピュータ修理の仕事をしており、10kg近くもある工具を持って客先から客先へ都内を移動する毎日だった。 夏の最中、スーツを着てアスファルトの上で焼かれた後に、今度は寒すぎる部屋で長時間作業するというのを繰り返していると、次第に身体がイカれてきてしまう。 ゼリーしか食べられなくなった私は、少し押されたら身体がバラバラになりそうなほど痩せていた。

そんな折、「少し気分を変えたら」と友人から紹介された青年と会うこと数回。おそらくは2人の関係の転機になるはずの葛西臨海水族園で、私はイカと出会ったのである。

夏休みということもあって、園内は子供たちでごった返していた。 青年と私は話が続かない気まずさから水槽を熱心に眺めるふりをしていたが、お互い少しも中を見てはいないのだった。マグロも熱帯魚も、目の上を滑っていくばかり。もうそろそろ出口へ向かおうかという頃、ふと大きな水槽が目に留まった。

アオリイカ。
私が想像したものと、それはあまりに違った。

水槽の中の群れは踊るように、右へ左へ、上へ下へ。 個々の動きが不思議と時々揃って、まるで舞台を観ているように引き寄せられた。
これが本当のイカなのか。
私が知っているのとは違う。

ほの暗い水槽の中で、イカたちだけが碧く透けて浮かび上がっていた。
体の割に立派なヒレは絶えず波打って、足はいじらしくひとつに揃えている。たまに外側の2本をふわりと広げるさまは、まるでバレリーナの腕のようにしなやかで優雅だ。 スイングするように泳いだり、ホバーリングするように留まったり。 そのたびに、背中の模様が星のように瞬く。

生きているだけでこんなに美しいものか。
驚きと興奮が静かに湧いてくるのを感じる。 海へ還ることもなく、ここで死ぬのに。メタリックに縁どられた大きな瞳は、何を見ているのか。

その姿をいつまでも自分の目の中へ映しておきたいと思った。 瞬きするのが惜しい。私は時間を忘れて彼らをを眺め続けた。 そうして長い間眺めていると水槽の中がこちら側へ溶けだしているように思えてくる。目を閉じれば潮の香さえするようだ。耳を澄ませば潮騒が・・・いや、人々のさざめきが聞こえる。

・・・あ。
一緒に来ていた青年のことを、まるで忘れてしまっていた。
「僕は観覧車に乗ってくるから、どうぞごゆっくり。」
イカの熱にうかされたままの私は、引き止めなかった。それを機に、青年は私の人生から去った。


ほどなくして仕事は苛烈さを増し、私は夜中の2時3時まで働くようになった。仕事をすることで気を紛らわせて生きてきたけれど、それにしては重すぎる負担になってきていた。

底のない穴の中を落ち続けているような焦燥感に襲われる。そんな夜は、あの日のイカを想った。
目を閉じると、まぶたの裏に美しく踊るイカが見える。 体を彩る色の粒たち。風に撫でられた水面のように輝きながら色を変えてゆく。 これまでほとんど気を払ってこなかったイカに、今はこんなにも魅了されている。 この世にはまだ私の知らない、気づかない、尊いものがまだたくさんあるのかもしれない。

プロジェクトを終えるとともに、仕事は辞めた。
何もない、空っぽの日々。 最後に干したのがいつだかわからない布団に仰向けに転がる。

天井に空想のイカを泳がせながら、ただ生きていてもいいのかもしれないな、と思った。