歩道橋を眺めるのが好きだ。 好みの歩道橋に出会うと、その日はずっといい気分。 振り返ってみれば、子供の頃からずっと歩道橋のことは好きだったけれど、それを誰かに話したことはなかった。 「好き」っていうと、なんだかそれに詳しくないといけないような気がして。 私は歩道橋のことは何も知らない。 歩いていて、歩道橋が見えると少し嬉しくなり、それが好みのタイプの歩道橋だともっと嬉しくなる。 時間があれば登ってみる。もっと時間があれば、上から景色を眺めたり登ったり下りたりする。それだけである。 これからも歩道橋について詳しくなる予定はない。
好きなもののことを良く知りたいという気持ちはよくわかる。 私にとってのそれはイカで、イカを眺めたり触ったり食べたりするだけでは飽き足らず、一生かかっても会えないかもしれない世界中の様々なイカの名前や、 生物学上の分類や体の仕組み、生態などイカに関する知識は何でも欲しくなってしまう。
知ることは所有することと似ている。 愛情と所有欲はとても相性が良いので、人は自分の好きなモノのフィギュアやカードを集めたり、あるいは知識を集めることでその欲を満たすのだろう。 私は偶像崇拝しない派なので特にイカグッズは集めていないが(全く買わないわけじゃない)、イカのキーワードで定期的にニュースを検索してしまうし、イカに関する本が家に10冊ほどある。
そんな情熱的な愛し方もいいけれど、たまに少し疲れてしまう。 上には上がいて、自分よりもっと数多くのグッズや希少なものを持っていたり、一生追いつかないような知識を持っていたり。 キリがないのである。
歩道橋とはもう少しこのまま、ゆるい付き合いをやっていきたいのだ。 野に咲く花を愛でるように、出先での偶然の出会いを楽しみたい。 これは横断歩道橋なのかペデストリアンデッキなのかとかそんな定義は考えずに、ただ目に入るままを愛したい。
歩道橋の上にBarを作って、手すりを撫でたり、行きかう車のルーフや遠くの立体交差を眺めながら酒を飲めたら最高だろうな、という妄想も、妄想のままでいい。 人気のない歩道橋だったら、缶酎ハイ片手に真似ごとをやるかもしれないけど。
写真を撮ってしまうと、どうしても収集癖が顔を出し、あれもこれもとまだ見ぬ歩道橋を撮りに出向いてアルバムにしまいたくなる自分がいる。 そうして一度写真を撮った歩道橋はきっと二度と見なくなるのだ。そういうのは嫌だ。
とはいえ、形あるものはいつかなくなる。 最近も、気に入っていた飲食店がいつの間にかなくなっていて少なからずショックを受けた。あの味はもう二度と食べられないのかと。 歩道橋もなくなってしまったら二度と登ることはできないけれど、せめて写真があれば眺めることはできる。 こんな素敵な歩道橋がここにあったのだよ、という記録を誰かのために残して置くのは大切なことのような気がする。
ご覧の通り私の撮影技術はひどいものだが、ないよりはましだろう。
これからもあまり入れ込み過ぎないよう、距離を保ちながら歩道橋を愛でていきたい。 好きなものは大切に。気が向いたらたまにはこちらにUPするかも。